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これまでのご利用、誠にありがとうございました。
とっても久々に投稿させていただきます。 年末から先週までかなり研究に忙しく、年越しの実感もないまま、もう豆撒き時も過ぎ、「ロマンティック恋の〜花咲く浮かれモード〜♪byミキティ」ですね♡2/14には花咲く人と花散る人が出てくるのでしょうね。花散った際には、石野真子の『失恋記念日』はゆめゆめ聴かぬようにお願いしております。歌が下手で泣けなかった記憶がございます。20代で石野真子聴くなんて私ぐらいかしら?笑 咲いても散っても花は美しいのだ!これぞ日本人!(謎のテンション) 前置きが長かったですね。研究がひと段落したというのは論文が完成致しまして、なんだろうなぁ〜症状が良くなった?ような気がしております。 単にストレス源がなくなったといえばそうなのかもしれないけれど。 それとは違う感覚で、論文を書き上げたことで形ある自分の分身ができたみたいな感じです。「自分!ってのが形になった!」って感覚がわたしをすごく安心させてくれます。 そうすると何かにぶつかった時、自分がなくならないのです。自分が喪われそうな感覚がないのです。 「過食症の人は自己表現がわからないから食に走る」みたいなのを何かで見たことがあるけれど、わたしもそうだったのかしら? 安心できる自分の存在感がなかったのかしら? そうかもしれないし、そうでないかもしれないし…でも、「これ自分っぽい」ってものが存在すること、これって大事なのかもしれない、そう感じる最近です。
本当の優しさって、「自分」が『相手』にしてあげたい事じゃなくて『相手』が「自分」にして欲しい事をしてあげることなんじゃないかな。 そんなことをしっぽりと考えた夜でした。
最近実は実はの調子が悪うござんしたです。症状もあったけど、それよりも気持ちの低迷が凄まじかりました。自分の将来につながることに専念してるんですが、なかなか上手くいかないこともあります。で、しゅんとならまだしもぎゃん!っと落ち込んでました。こないだ整理上手になりましょう運動をはじめたけれど、上手くいかないものは上手くいかないしそれをわたしは好まないんで(本当にめんどくさい性分)、疲れました。 自分の望みを知ってそれをどう実現させるかに集中していたけれど、間違ってはないけど間違っていたのかなぁと思っています。 望みって、度合いによっては、人の視野や可能性をどんどこ狭めるんではないかしら?望みに、願望にしがみついてしまうんです。執着っちゅうやつですな。執着すると、その望みを守っちゃうんです。望みという形で。 望みに遠のく(ような気がする←ほんとに気がするだけなんだけど)と、望みを守りたい・保持してたいっていう気持ちから、望み方向に「えいや、それいけ!」って踏み出すことが出来なくなってしまう。なんて現象が起こってました。それって望みから現実は遠のいても、頭の中は望みだらけなので、"脳みそ inside outside gap"(造語)です。やっぱり不調なときって頭の中と現実が乖離していて、その格差が開けば開くほど調子が良くないみたいですな。で、わたしは今通常の精神で脳みそもちゃんと動いてる(はず)なんだけど、起き上がれたのはちゃんと理由があるみたいです。 頭の中の望みを「ポイッ」って捨てちゃいました。「来月にはこうしたい。」「来年にはこうしてたい。」「5年後にはこうなりたい。」なんて思ってても10分後にパン加えて走ってくるイケメン(塩顔)に曲がり角でぶつかって、その1ヶ月後に結婚するかもしれないですしね。そうそう、先って予測はできるけど、その予測の精度がどんなに高くても、突発的な要因でごろっとまるごと変わってしまうなんてことあります。これまでもありました。でも変わったから人生に抑揚がつくという。だから、見えない先なんて楽しいことが起こるとよいなよいなくらいに思ってたらいいんだわと執着してた先を捨てました。頭の中はね。 難しいんだけど、なんだろうな身体の奥深いところはそれが本当の望みならちゃんと掴んでるみたいで、行動レベルでは捨てさせてはくれません。だからまぁやるべきことをやるとなります。そしたら結構望みに近づいてたりして、さらばじゃって思ってたけど、まぁ持ってても良いのかなんて思ったりもして… 「やっぱこれだね〜♪わたしの選好(注1)♬(トッポのメロディー)」って頭の中も戻ってきて、調子もよくなりました。めでたしめでたし。 ではない!頭の中戻ってるなら元通りなのになぜ調子が良くなるかを、ちゃんとお頭使って考えなはれ、りぃたぬき! で、まぁこうかなと分析したことがあります。不調が多い人とか悩みがちな人(我含む)って頭の中と現実がとてつもない乖離を起こしてるらしいです。これ聞いた話ね。 具体的には、現実があってそれを私は「私」フィルターに1回かけてものごとを見ているわけです。じゃないと目に映るもの全部そのままに認識ちゃって情報量過多で脳みそショートしますから。フィルターにかけることは別に良くも悪くもないけど、そのフィルターを通したあとの「私が見ている現実」っちゅうのが厄介です。このフィルターって願望とか希望とかが入ってるから、願望を反映して現実をジャッジします。願望への執着度が高ければ高いほど、ジャッジの合格基準が高いんです。そうすると、なかなか自分とか周りの環境にOKサインが出せなくて、いつまでも現実と頭の中ジャッジがずれてしまいます。これが頭の中と現実との乖離ではないかしら?と思います。 だからと言って真反対の自分にOKサイン連発しまくりでも、現実良くないのに「幸せ〜パフパフ」って感じで、成長低迷ですからねぇ。本人が良いなら良いし、それもある意味幸せ人生だけど、わたしはそれを「わたしの」幸せ枠に入れたくないので、わたしはしないというだけ。 だからやっぱね、現実を現実通り見るなんてほぼ不可能だから、「願望保持のでも実現不確かだから今やることやる姿勢」でいることかしら?そしたら無駄に執着せずに済むから、自然とハードルが下がって、頭の中と現実との整合性が高くなると思います。整合性がある程度でてくると、まぁ落ち着きますよ。わたしの周りでもあぁラクそうって人はそんな人が多い気がしている。。。 おわり (注1)選好とは、個々人の好みが複数の選択肢において順序付けられたもの。
昨日、何もしていない。 過食していない。 嘔吐してない。 下剤飲んでない。 今日も、何もしていない。 過食疲れで寝すぎていない。 嘔吐疲れで寝すぎていない。 トイレ行き疲れで寝すぎていない。 酒にも、眠剤にも、安定剤にも頼らず、寝て起きた。 こんなの何年ぶりか分からない。
どこまで振り返ったか惰眠を貪り過ぎて大脳新皮質低下(´・ω・`;) そうそう、3年目までを簡単に振り返って、主に3年目の行動に焦点を当てていたのよね。まとめると、 【1年目】問題の露見(幼少期の頃やそれにより形成された思考回路に関して) 【2年目】過去の傷への対峙 【3年目】2年目の尾を引きつつ、「癒し」「自己受容」へのウソコミット でしたかな。このウソコミットプロセスについてが前半でした。 わたし、この抽象概念にぽわわわんの時期をバカだなぁと思いながら愛しています。騙し騙しの不適切な癒し/なぐさめ、これがないと今のわたしはなかったので。 過去の傷(なんやねーん)に向き合ったわたし、2年目時点でもう辟易としてしまっていたんですね。心の筋力年齢85歳くらいでしょうか。なんせガッツがなかった!!! あの頃のわたしの自己受容って痛かった、めちゃめちゃ。痛みに耐えうる、耐えうるけどこれ以上いくと崩壊しますよというレベルになります。その崖上ギリギリで選ぶんですよ、「まっしゃーない、これがわたしか」と。 まぁうまく出来てる人はこんな方法とりませんわ。大人になると理想と現実のギャップを嫌でも見なければならなくなって、かっこわるい自分を見なきゃいけなくなります。大抵の人はそんな自分をちらっちらっとみつつ、気持ちに折り合いをつけていくんでしょう。みなさん、ほんと折り合いの付け方がうまいと思う、尊敬してしまう!!♡ わたしはまぁ下手なのですよ。理想を潰れるやろ!ってくらい握りしめて生きています。だからといって現実を全く見ずに生きることもしないので、ギャップがわたしを押してくる、崖まで。こんな方法をとるので、ウソコミットで自分を認めたつもりになってガッツを貯めるしかなかったわけです。同時にしていた「摂食を知る」という作業が痛くてこれがモノホンの自己受容につながっていたのは今となっては衝撃ですが。 3年目は自己受容(スパルタ式)しつつ、自己受容の際の痛み緩和のためのウソコミット(当時はこれが自己受容と思っていた)をしていました。ちなみに、これは過去へのフォーカスだったかなぁと。で、4年目(今年)はどうにもならない過去に縛られることなく、現在〜未来に対処していくことになります。3年間今につながる過去をみて癒して立ち上がれるようにしてきたわけです。傷は手当てしなければ、次には進めませんから。いま、「癒し→→→自己成長プロセス」の最後地点にいる(これからが長い気が…笑)と思います。 胸に刻印したことをまとめると、自己受容っていう聞こえいい抽象概念ながめてても、それは自己受容ではなくて、具体的に何が問題か(ここではどの自分に苦しんでいるのか)をみてそれを緩和するには何をしなければならないのかを考えていくことかな。わたし崖上ギリギリ自己受容はもうやめました(。・ω・。) どういう方向に転換したのか(今年のこと)は…… はっ!!!書くと予告したのに書けてない(°_°)(°_°)(°_°)なんてことだ!!
「いっちょあがり♪」これ、わたしよくやってしまいます。 「お、数日/数週間症状ないよ。いっちょあがりか?」「お、タスクが進むよ〜スイスイスイ。いっちょあがりか?」このときキラキラいけいけどんどんな感情です。『素敵』ですね〜ほんと『素敵』です(括弧付きですよ!)。 おい、ちょっと、そこのたぬきさん。あんたまたやってしまっておりますよそのいっちょあがり思考。危険でっせ。わたしの経験上こんな積極的ないっちょあがりは存在しません。いっちょあがり魔法は解けます(悲しいけど解けないともっと悲しい)。な・ん・で・か、「頭の中だからだよ〜ん」と今朝気づきました。 この手のいっちょあがり(キラキララメ付き)は客観的事実からは生まれないのよね。摂食の方は0か100か思考が多いらしいけど、わたしそれです。ほとんどすべてのものは0か100の区分に分類されることはないのに、0か100に分けます。ここでのいっちょあがりは0か100かで言うと100寄りの現象をキャッチして「分類100ですよ、あなた」をしています。そりゃテンションあがりますよね。『満足満足』ですね。でも現実100ではないので、頭の中と現実が乖離します。それに気づいた瞬間、魔法が解けるという…はい、ここで絶望(°_°)しない!!ようにしましょう。かつてのわたしはここで絶望(0にクラス替え)しているわけです。心と身体は連動するから0⇄100の連続的クラス替えは結局どこにも進まないということになります(?)(ここ自信ないな…違うかも笑)。 つまり、実感をもって言えるのは、頭の中ばっかり見てると良いことないよね〜ってことです。だからと言ってね、現実見て「いま地点75」「いま76?んー、76.1かな?」とか出来ないわけです。そんな能力ないです。でも、それまで50地点だったひとが70地点になったら嫌でも気づくわけで、そういうときって「あ、そういえば数ヶ月前に比べて症状溶解してない?そうかぁ〜」とそんな感情に起伏ないです。だって事実通りの認識してるだけだもん。 あと、「そういえば」ってのがねイイね〜イイね〜って思います。その問題、今まで忘れてたわけでしょ?保留してたわけでしょ?「わからないことは保留する、そして通常の営みに戻る」イイね〜です。この感情を表すことばがイイねしかないのは語彙に乏しく悲しい(´・ω・`) 最後、ほんと最後だけど(長くなっちゃうから汗)感情の起伏ないほうが良いのかといえばそうではないです。人間ですから感情に巻かれたっていいじゃないって思います。但し、実生活に支障をきたして嫌だなぁと思わない範囲でって感じかなぁ〜支障をきたすことまでは良しとしているですかね。いっちょあがりしちゃうのもだいたいは仕方ないです。前にまじかなわない方(かなうかなわないとか言ってる時点で失礼)で同じ地球上で息してんのかすごいなって方が「人間の生存能力として脳みそ活動によるエネルギー消費は最小にしなければならない。だから、わかっちゃったことにする、いっちょあがりにする。」と仰ってました。今の時代、脳みそ使って死ぬことないので、そこ頭ん中と現実(わたしが見てる現実であるとわかった上の現実)みて脳みそ使っていきましょうよ、たぬきさん。と自分に言い聞かせました(今、右手ビシーッのポーズしてる)。 こんな長いのを読む人がいたら、本当にすごい!誤字脱字チェックで読んでて自分で眠いもの…でも整理になって良きかな良きかな♡