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これまでのご利用、誠にありがとうございました。
やってしまいました。明日大事な集まりがあるのにまた顔がパンパンになってしまう。 いやです。人に汚い醜い臭いって思われそうで怖い。 あー仕度しないと。
現在28歳 都内で働く会社員です。 過食嘔吐14年 現在進行中です。 体型は普通ですがオタク。 同じように悩んでる人、悩みを相談できる人と交流したいです。漫画好き。ドロドロとした小説が好き。最近で一番はまったのは沼田まほかるです。音楽は宇多田とか中島みゆきが好きです。
毎日過食嘔吐しています、、 薬のせいで母乳をあげられなくなったので、アルコールも一緒に。 吐き残しのせいでブクブク太ってる。 もうやだ。何もかもやり直したい。昔に戻りたい。 こんなんで今月で断薬できるの?
過去に欲しかった愛情は、今更になって「改めてちゃんとした形で私にください」ってできるものなのだろうか。 もっと言えば「はい、わかりました。今更だけどちゃんとあなたにあげます。」と渡されたところでそれは自分の本当の望みなのだろうか。 むかし欲しかった愛情があって、それをもらえなくて、自分の存在があっていいのかわるいのかわからなくて、自分の存在が見えなくて不確かで証明したくて、がんばった。そしていつの間にか摂食になったのだ。今思えばなるべくしてなった幼少期の境遇でもあった。摂食がなければ、この記憶は「臭いものに蓋をする」といったイメージでゴミ箱に投げ入れて墓場まで引きずっていくつもりだった。そして、その私にくっついたゴミ箱は存在を消されていたのだった。けど、がんばりすぎてゴミ箱を引きずれなくなった私は摂食になったけれど、数年かけてゴミ箱をきれいにしている。 話を戻すと、その貰えなかった愛情を仮にいま貰えたとしたらどうなんだろうと考えていた。実現しないそれを夢見た日もあったけれど、いまはそれは違うなぁと思う。 その愛が欲しかったのはあの頃わたしなのだ。今のわたしではなくて。 今と過去を混同していたけれど、「あぁ、あの頃のわたしは愛情が欲しかったのだなあ。」「こういう愛情に飢えていたのか。」そう枯渇していた過去の自分の存在に気付いたとき、やっとほっとできるのだ。やっと不確かな自分の原点に気付いてあげたとき、その頃のわたしはきっと飢えていた愛に代わるものを手に入れるのだろう。 欲しかった愛情の代替物となるような誰かの愛情はないと思う。欲しかったそのものは手に入らないのに。けれど、自分だけが今の自分だけがかつての自分の心を埋められるのかもしれない。 そんなことを考えていた。
最近よく思うのは、摂食は存在確認なのかなぁということ。ロジカルに説明はできないのだけど、ふと思う。そして、そう思い始めてから「食べなくてもあなたはここにいるよ。いていいよ。」そう唱えることにしている。 今同じように食べることにも食べないことにも苦しんでる人に「あなたはここにいるよ。いていいよ。」そういってあげたい。 明日はカリカリの昆布を食べたいなぁ。
ひとりごとです。未熟な自分メモ。スルー推奨(笑) わたしの母親は、ある日、専業主婦からバリバリのキャリアウーマンになり、ひとりで会社を立ち上げるほどのパワーがあった。 だけど、ご飯も作らなくなり、帰りはいつも遅く、家には寝に帰るばかり。母親の仕事はブライダルの仕事で、我が家にはいつも結婚式の本や衣装のカタログが散乱し、「こいつ、自分では結婚に大失敗したのに、他人の結婚式で金儲けするなんて、ホントよくやるな」とさめざめ思っていた。 暴力をふるい、暴言しか吐かない父に立ち向かって離婚をするエネルギーはひとつもないのに、彼女の仕事に向けるパワーには凄まじいものがあった。母親から過食代をふんだくったこともあったし、好きなものをたくさん買ってもらった時期もあったから、今思うと悪いことばかりではないのだけれど(ありがたいです)、母のそのパワーがどこから来てるのか当時のわたしたち姉弟にはまったくわからず、「どうせ、あいつは何も考えてないでしょ。なんつったってバカだから。‘バリバリ働く名の知れたキャリアウーマン’、‘いつも素敵な○○さん’に酔ってるだけだって。そのためには何だってするんだよw」と、そう解釈していた。 そして、きのう、久しぶりに母親のことを考えた。前みたいに、悲しくもならないし「あー、元気かな?」ってたまに考えるようになったけど、やっぱり母のあの仕事への謎の原動力が相変わらず気になって仕方がない。自分の頭で母のその行為が理解ができないから、わたしという生き物は気になってしょうがないみたい。でも、1年前のわたしでは思いもつかなかったような、「あ!?これなら腑に落ちる!!」という理由が、ふと閃いたのだ。「ママはあの男(ちち)に対して、自分ひとりで健気にせっせと働き、輝いている(ように見える)自分をアピールしたいんだ!」と。これが、あの仕事への謎の原動力になっているのなら、わたしはこれを腑に落とせる。そして、それはわたしの摂食障害とまったく同じじゃないか、と思った。 「わたしはこんなに痩せてしまったよ!」「わたしはこんなにも食べれないんだよ!」そして「わたしはこんなにも食べたくなっちゃうんだよ。不憫でかわいそうでしょ?」 かつて無意識のわたしにこんな気持ちがあった時のように、母もあの男に一生懸命自分ををアピールしているのかもしれない。わたしも食べ物のためなら、どんなパワーだって出た。良いことと悪いことの判断なんてもはやどうでもよくなり、自分のプライドよりも食べ物を確保することのほうがずっとずっと重要だった。あの時のわたしには、悲しいかな食べ物しかなかったように、母にもきっとあの男のこころを繋ぎ止めるためには仕事しかなかったんだ・・・(そこまで魅力ある男じゃないのに)。 なぜだかわたしは食べ物で、どうしてだかママはブライダル。それで他人の気を引こうと、こころをつなぎ止めようとした。だとしたら、おあいこ。 こう母に対して解釈できた時、胸がスっとしてこころが軽くなった。人は自身の解釈によって、まるで世界が変わってしまう。みな、それぞれの解釈を生きている。 きょう、弟にこの話をしたら、軽く口論になり、「解釈!?何それ?なんでそんなに許したいのかさっぱりわからない。ずっと憎んでていいじゃんあんなやつ。真実は絶対にあるんだから、死ぬ前に相手に聞き出すのみ。何で急に‘解釈’なんて目出度い話しだすの?」と。 わたしは、おとうとには話さなかったけど、おとうととわたしの違いがわかったような気がした。それは、わたしの摂食障害のように自力ではどうにもならないもの、ひたすら受け身でじっとしているしかないものの存在を知っているか知らないかにあるんじゃないか、と。おとうとは精神的に苦しんだ時期はあるけれど、色々と能力が高く才能もあり、なんでもこなしてきた。わたしは、気の優しさもあってあまりキツく出れず、色々と能力も低かった(笑)おとうともわたしにはない良いところや秀でているところがたくさんあるけれど、わたしも摂食障害になったからこそ持つことの出来た‘解釈’や‘視点’がある。いや、本当は苦しんでいたときはその‘解釈’さえうまくできず、小説や歌詞の中に出てくるドラマチックな‘解釈’や専門書の中の正しそうで知的な‘解釈’に頼っていた。それが、わたしは摂食障害になって本当に良かったと、今日しみじみ感じることができた。「わたしの‘解釈’」ができている!!!そして、それを生きている!!!それが、すごく嬉しかった。いい年して、ちょっと恥ずかしいけどね。 まだ、ビョーキとしては治ってはいない摂食さんだけど、何だかいつも色々気づかせてもらっている。摂食さん、いつもどうもありがとう。これからもよろしくね!?