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誰かに話したい。 誰かに、 誰もいないんだ。 電話、メール、 する相手探すけど やっぱ やめとこ だから、 もう1人の自分。 君なら、 聞いてくれるよね。
人は自分と誰かを比べるということをよくする。たまに生まれつき「そんなことどうでもいい。わたしは需要があるところに自分を供給するのみ。」的精神の人がいて、驚くし羨ましく思うこともある。だけど、大概の人は相対的な自分を自分として見ていたりする。そんなとき「そういうの地位財って言うんだよ。」と。 地位財とは、簡単に言えば誰かと比較して自分の方が良ければ満足満足ってなる財のこと。例えば、年間所得を例としよう。自分の所得が400万円で同僚が200万円の場合と、自分が500万円で同僚が700万円の場合、どっちがいい?前者がいいと思った人、所得はあなたにとって地位財だよ。他人と比べて高いと満足なんだ。だって後者の方が100万円も高いのに、前者を選ぶんだもの。後者を選んだ人は所得は非地位財だね。 非地位財とは、他人と比べずに多ければ多いほど満足満足となる財だ。よく例で挙がるのは休暇だ。自分は週休2日で周りは週休1日の場合と、自分は週休4日で周りは週休5日(ほぼ休んどる笑)の場合、さてどっちがいい?これは後者を選ぶ人が多いと思う。休みは他人の休みと関係なく多けりゃ多いほど良いもんだ。前者を選んだ人は休暇も地位財なんだね。 別に何財だって良いも悪いもないのよ。所得が非地位財だって良し、休暇が地位財だって良しなのよ。非地位財だらけの世の中なんてすぐ満足しちゃうから成長しないし、でも地位財だらけだったら他人ばっかり気にしていつまでも自分の満足がよくわからなくなる。だからどっちでもいいんだが、何を何財と自分は認識しているのか、本当にそれが自分の望みなのか、これを見極めることだね。本当に誰かより容姿が良くなくてはいけないのか?本当に誰かよりよく働けなければならないのか?本当に誰かより良い子ちゃんじゃなきゃならないのか?そうだよっていう自分がいても良し、そんなの嫌だよっていう自分がいても良しだ。大事なのは自分が心身で何を求めてるかということ、わたしはそう思うよ。 それから地位財の落とし穴はなかなか幸せになれないことだ。自分を地位財にした場合、いつまでたっても自分よりレベル上の人がいるから中々自分に満足できない。また今どこにいるのワタシ!?てなる。誰か基準の自分位置だとどこココ?ってなる。自分を非地位財にできたらいいけど中々できん。そんなときは誰か基準の「誰か」を他人じゃなくて過去の自分にするんだよ。そしたら過去自分基準をつくるために自分の位置を嫌でも逐一把握してなきゃならん。加えて、だいたい過去よりは成長してることが多いから結構やるじゃんワタシ♡ってすぐ幸せになれるよ。まぁこれ地位財を非地位財に変えてるのと変わらないんだけどね。 でもまだここでも落とし穴があるんだ。自分の位置を把握するって難しいし、あと心痛いよ。見たくないことも見なきゃならんこともある。そんなときはそれを助ける能力のある人に頼ることだ。そういう人は「客観的にみた自分」をその人の価値感とかかわりなく事実を事実のままに教えてくれるよ。その事実グサグサささるんですけどーって思うこともあるけど、そういう人って何故か恨むことができない。そんな人は自分にとって貴重な人材だから大切にしなくてはね。そして相手にも自分ができる何かをしてあげたら、フェアな人間関係でよいよいと思う。長っ。
6月から勉強が忙しくて、風邪をきっかけに拒食気味になりました。数年間過食で悩んでいたので体重も減り嬉しさを感じていました。でも、摂食障害の初期は拒食だったので、減りすぎないように注意していました。そして最近になって食欲が戻ってきたと同時にまた過食で悩み始めました。 毎日、実験とレポート、講義の勉強に追われ、周りの優秀で真面目な友達に対する劣等感を感じています。ほとんどの子が大学院に行くので、これがまだ数年続くと思うと就活しようかと思うけど、自分ひとりでする勇気もなく… 大学入ってからずっとこんな悩みをもっているから、時間が解決するのかなとかも思うけど… 色んな人に、自分のことを卑下し過ぎだよ、周りを見過ぎだよと言われます。卑下し過ぎているせいか、話を盛ってしまうこともあります。あと、自分を追い込みすぎているせいか、周りに強く当たってしまうこともあります。でも、追い込まないとやってけない毎日。 今は目の前のことを、自分のペースでやっていくことが大切かな。
摂食障害に限らず人の心に関する治療の難しさの1つとして、医師やカウンセラーが個別ケースとしてその人自身をみることができないという点があると思っている。 医師やカウンセラーは一般的に摂食障害は何か、何がその裏にある傾向が高いのかを知識として持っている。そしてその一般的知識を個別ケースに当てはめていくという形をとる。あれも違う、これも違う…と。 だけど、物理的に見える内蔵疾患などを扱う内科医、外科医はどうだろうか。まずその人のレントゲンをとり、よーく観察して、それを一般的な知識と照合させていく。 つまり、物理的に見える病気と見えない病気とではアプローチが逆なのだ。これが間違っていると思う、というかこれが病院行く=治療がすすむということに繋がらない原因であると思う。 目に見える病気より心の中はよりケースバイケースであって、その人自身を見ないといけない。目に見えないかつ本人にも認識されない何かを手探りで見つけていく、これは相当な労力だ。だから、一般→個別のアプローチをとりたくなる気持ちはわからんではない。そもそも一般的知識や分類は膨大な情報量を大まかに把握するために用いられるのであって、それを拠り所にするのもまぁ理屈としてあっているし、それはそれなりに必要なものなのだ。 しかし、そこからまったく抜け出せない医師なりカウンセラーなりがいるのも事実だと思う。一般知識にしか目がいかないのは、ググればわかる情報を患者相手にひけらかしてるのと同じだし、それは対人援助職として相手に失礼なんじゃないの?手探りでもよくわからんでも、そんな中でどうその人個人を見ていくか、それに向き合っている医師やカウンセラーが必要とされてるんじゃなかろうか。話し方のうまい医師、知識豊富な医師なんか必要としていない、人を一個人としてみれる医師が必要なんだ。 別にそんなbad doctorに診てもらってるわけじゃないけど、そんなことをなぜか考えたりした。私の先生(最近たまにしか行かないけど)は、「あなたは〜、あなたの場合は」という言い方をする。